ツリー・オブ・ライフ【感想】


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監督 / テレンス・マリック
俳優 / ブラッド・ピット、ショーン・ペン、ジェシカ・チャスティン

1950年代半ばの中央テキサスの小さな田舎町。幸せな結婚生活を送る
オブライエン夫妻と、彼らの子供である3人の兄弟。父は、信仰に厚く、
男が成功するためには“力”が必要だと考えている厳格な男。母は、自
然を愛で、子供たちに対しては精一杯の愛情を注ぎこむ優しい女。
だが、3人兄弟の長男ジャックの心は、そんな両親の狭間で常に葛藤し
ていた。大人になって成功を手にしたジャックは、深い喪失感の中、
自分の人生や生き方の根源となった、テキサスの小さな街で家族とと
もに過ごした少年時代に想いを馳せるのだが…。ラッド・ピットとショ
ーン・ペンが共演で話題の父と子の物語。『天国の日々』、『シン・
レッド・ライン』の名匠テレンス・マリックがメガホンを握る。
cinemacafe.netより引用

【感想】

まず、この映画の宣伝マンにとても同情する。
日本にはキリスト教の(というより様々な宗教についての)理解があまり
にもない。
なので、多くの日本人はこの映画のストーリーに通底しているキリスト教
のしかも、ヨーロッパ的なカトリックではなく、原理主義的なプロテスタ
ントへの理解がないと映像で何が表現されているのかわからないだろう。
僕が観ている最中も、見える範囲で10人は途中で席を立ったひとを確認し
たくらいだ。
だから宣伝には親子愛を軸にした部分しかアピールできない

プロテスタントとはいわゆる、カルヴァン主義を信仰するものである。
(詳しくはgoogle先生で)

映画冒頭で、

旧約聖書『ヨブ記』38章4節
「わたしが大地を据えたとき おまえはどこにいたのか」

7節
「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い 神の子らは皆、
 喜びの声をあげた」

が引用されている。

劇中でも、次男が死んでしまったり、プールで突然子どもが溺死したり、
近所の家が火事になったりと悲劇が起こる。しかしそれについての原因
は語られない。
これがまさにキリスト教の”予定説”である。

予定説とは、

”誰が救済され、誰が救済されないかということは、
 神(ゴッド)が一方的に決めて必ずそのとおりになる。”

ということ。
だから原因などない。
このへんは因果律の仏教とは真逆。
しかし、次男を失った母親は神に問う、

『なぜあの子が死ななければならなかったのですか?』

と。
さらに、キリスト教には『最後の審判』というものもある。
それは、

現世で一度死ぬけれども世界が終わるとき”完全なかたち”で蘇り、
『最後の審判』で裁かれる。

というもの。おそらくこの家族が信仰する教会はすべてのものが救わ
れると説いていると思われる。であれば母親は何をそんなに嘆き哀し
むのか…?

いくら敬虔な信者であろうと、これは割り切れない感情なのだろう。

それでも、というか、だから、その最後の審判で全てのひとが蘇って
一緒に歩いていく描写もされている。現世では不平等な災いに遭った
ものもそこでは一緒に蘇る。

それと、進化論が素晴らしい映像表現で綴られている。
ここは僕もわからないところ。
神がすべてを創造したのではないのか?

というように、この映画はキリスト教の宗教観を映像にする必要のあ
る映画なので、その知識や理解がないひとにとってはおそろしく苦痛
なのだ。

このブログも僕が観た劇場と同じように、この時点までこの文種を読
んでくれている方はあまりいないかもしれない。

しかし、話はこれからだ。
おそらく監督は、

『父親が神を崇めるように、子どもは父親を崇めている。』

この対比を壮大なスケールで描いてみせたのではないだろうか?
この父親は子どもに言う、

『何か事業をするんだ』と。

そしてその子どもはその”教え”どおりに事業を起こし、成功を収める。
しかしそこで立ち止まってしまう。

それは、成功はしたが、その先は何をしたらいいのか解らないからで
はないだろうか?

『この成功に何の意味があるんだ?』と。

主人公には子どもはいない。
そして主人公が父親との電話の会話で、

『最近弟のことばかり考えいる』という台詞がある。

これも僕は、『最近”むかし”のことばかり考えている』と言い換えら
れるのではないかと思う。

プロテスタント、福音主義者を多く抱えながら超大国になってしまっ
たアメリカが孕む今の問題として捉えたのが、この映画なのではない
だろうか?

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