『検察側の罪人』感想


十分楽しめるエンターテインメント作品だった。
しかも木村拓哉というポップスターがダークヒーローを演じ、抑制の効いた素晴らしい演技を見せてくれた。
2001年に『HERO』という検事を演じたドラマがあったが本作では同じ俳優が演じているとは思えないくらい“ちゃんと”していた。
共演者も強者揃いだったが、木村拓哉の演技はそれに引けをとらない堂々としたものだった。
特に個人的にグッときたのが、木村拓哉と松重豊のコンビ感だ。
正義の象徴である検事の最上(木村)と裏稼業の諏訪部(松重)が実は信頼関係にあり、ある部分では同じ価値観を共有しているというコントラストはとても興味深い。
日本軍史上最悪の作戦『インパール作戦』から帰還した祖父を持つ二人は、“生きる”
という事に対して、他の日本人よりも違った感覚を持っているのかもしれない。
(蛇足だが、松重豊の体格でのあの衣装はとてもクールだった。)

本作で原田眞人監督が描いたのは、『人間が持つ二面性』だと僕は感じる。
それはオープニングシークエンスでもシンメトリーをモチーフとした写真が使用されている事からも窺える。(『world is not world』古賀勇人作品)

広義としての正義と狭義としての正義。
劇中最上の中ではそれらが相反しながら同居する。

広義としての正義とは、極右的な政治思想によって戦争を起こそうとしている組織を罰しようとしている正義。
当然これは、兵隊であった最上の祖父がゴリゴリの反戦思想を持っていたことも影響している。
狭義の正義は、大事な人を殺された私憤によって犯人を法に則らずに罰しようとしている正義。

時効によって釈放された松倉は、別件の取り調べ時に時効になった事件も自分の犯行だったと自供した。それによって最上は松倉を別件での事件で立件し、死刑にしようとする。
しかしそれは検事が最も遵守しなくてはならないデュー・プロセス・オブ・ローを犯す事になる。
『バットマン』を思い出してもらうとわかりやすい。
警察であるゴードン警部は法律に縛られて犯罪者を捕まえられない。
それをバットマンは法を無視して援護し、二人は悪を裁く。

法に縛られて正義が行使できないジレンマ。
それを最上は一線を越えてでも遂げようとする。
それほど大事な人だったのだろう。

冒頭にエンターテインメント作品だったと述べているのは、その正義の二面性だけにフォーカスした作品なら重めの社会派サスペンスの佇まいだっただろうが、本作はその軸にいろいろな要素が盛り込まれていて、それらも楽しめるものになっているからだ。
(監督の思想的な描写は若干ノイズに感じる場面もあった。)

最上の狭義の正義に対してグイグイとプレッシャーをかけてくるのが若手検事の沖野だ。
沖野は元々最上信者で、最上の“広義としての正義”を継承するものだと自負している。
しかし最上から狭義としての正義が露呈してくるにつれ、最上を信じられなくなっていく。

本作冒頭、最上が新人検事の研修で、
「検事は自らが作り上げるストーリーに固執するあまり、検事が犯罪者になってしまうことがある。それは愚かなことだ」
的なことを言う。
それに沖野は深く感銘を受ける。
これがラストの別荘シーンでの“振り”になっている。
ラストカットの沖野の叫びは、最上への失望を表すものだろう。

大筋としてはこんなところだろう。
細々としたものをいくつか取り上げてみたい。

誕生日辞典。
誕生日辞典とは、何月何日生まれはこんな性格で著名人は誰がいる、という内容の書籍。
松倉に殺害された由季。
彼女は誕生日に執着があった。
由季とダイナ・ワシントンと沖野は同じ誕生日。
最上と同級生で由季のいた北豊寮で一緒に暮らした親友の丹野。その丹野の誕生日も丹野の性格を描写するために機能している。
どうせなら最上の性格もどこかで使ってもよかったのではないだろうか?
(二回観ているが、使われている記憶はない。)

蒲田の事件の犯人の弓岡。
単独犯だったと言っているのに、見張りをしていた者が自首してきている。
これは解せない。
弓岡は最上を信頼して逃亡に至っている。
別荘に向かう前に、犯行に使用した折れた包丁を自宅から回収さえしている。
見張りを立てていたのなら、最上に伝えないとおかしい。
もし忘れていたなどの事なら、弓岡に対して“忘れやすいいい加減なやつ”的な演出を一回でもつけておかないと、どうしても後出しジャンケンに感じてしまう。
白川弁護士がパーティー会場から出て行く時に、何か悪態をついている。
なんと言っているのか聞き取れなかったが、それが何か示しているのか?

「白骨街道は今にも続いている」というセリフ。
インパールの白骨街道は、大本営の無謀な作戦によって多くの日本兵が亡くなり、白骨死体がそこかしこに転がっていた事を表す。
しかし別荘に埋めた弓岡の死体は、最上自身の私憤のためのもの。
構造として相関していない。
“大本営と最上による無謀な犠牲としての白骨”という自虐的に言っているセリフという感じもなかった。
インパール作戦の要素は、監督が脚色したもので、「ああいった悪しきシステムは平成の今も日本の社会の中に根強く残っている。そういう事を静かに伝えなければと思いました。」と語っている。
やはり最上にこのセリフを善的に言わせるのなら、構造的に相関していないと成立しないのではないか?

脚本として詰めの甘さが感じられる。

二面性へのピントがバシッときていない。

『ダークナイト』のトゥーフェイスことハービー・デントは復讐のため検事としての正義を捨て、マフィアを襲う。
さらに最後はゴードンに同じ苦しみを味わわせようとするまでダークサイドに落ちてしまう。
愛情が深いほど、憎悪への振り幅は大きいのである。

最上に置き換えてみると、由季への愛情と松倉への復讐心は成立している。
それをインパール作戦の愚かなシステムに繋げるなら、最上を完全なる悪として描かないとわかりづらい。
本作の構造だと、
“最上のような人間が、大本営のような行いをするのだ。”
となってしまっている。

しかしそこまで目くじらを立てるものでもないので、お話自体は何となく追いつつ、優秀な俳優陣の素晴らしい演技を楽しむのが健全だろう。
(それにしても惜しい…)

筆:髙橋

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