少し間が空いてしまいましたが、後編2へといかせていただきます。
本作は、娯楽大作としてもずば抜けたクオリティーで、年頃の少年から年配まで幅広く楽しむことができる。
派手なアクションシーン。
壮大なストーリー。
美しい女優陣。
男の子心をくすぐるガジェット達…。
かなり高いハードルは裕に越えている。
しかし、細かい箇所を見てみると、いろいろアラも垣間見える。
”どうやって、ブルースは入ってこられたの?”とか、
”その件はやりっ放しですか?”とか、
”そこはこうやったほうが(現実的に可能な手段と加味しての)、よかったのでは?”など、
そういった箇所もあるのは事実なのだが、僕は本作を観終えたときに、監督が伝えたかったメーッセージは、
”ノブレス・オブリージュ”だ!
と直感で思ったのだ。
ノブレス・オブリージュとは、
直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、
日本語では「位高ければ徳高きを要す」などと訳される。
一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。
一般的な用法ではないが、慇懃無礼あるいは偽善的な社会的責任に
ついて蔑視的に使われることもある。また、実際の歴史では、貴族
などの特権と贅沢を正当化する隠れ蓑となった側面もある。
(ウィキペディアより引用)
ストーリーの舞台であるゴッサム(シティー)は実際にニューヨークの呼び方らしい。
ニューヨークといえば金融の中心。
昨今、その金融でいろいろなエゲツナイ事件が起こっている。
金持ち達は私利私欲の赴くままに金儲けをして、他人の損なんて知った事ではないようだ。
そこにきてオキュパイウォール街なんてデモが起こる始末・・・
アメリカさんよ、ちっとは社会貢献も考えたらどうよ?
と監督クリスが思ったかどうかはわからないが、
本作でも、民衆(特に労働者を中心とした)と富裕層との対立構造を描いていたところをみると、
あながち間違ってはいないのではないだろうか。
バットマンであるブルース・ウェインは、『ビギンズ』、『ダークナイト』の2作をかけて、
自分のアイデンティティー、使命を獲得し、そこに邁進し、そして迷う。
執事のアルフレッドが言っているように、社会のためというよりは自分の明晰な頭脳、身体能力、
スペシャルなガジェットの力の行使に酔っているところがある。
現実社会でも自分のしたいことを満たしているだけでは、折角の有能なマンパワーが効果的に社会に
還元出来ない。
ブルースの父、トーマス・ウェインはゴッサムのためにあらゆるインフラの整備や自身で財団をつくり、
恵まれない子のサポートなどに尽力した人物だ。
ブルースも勿論そんな父を尊敬しているし、そうありたいと思っている。
ここは完全に推測だが、ブルースが自邸で着ているガウンの胸にイニシャルが TW とある。
これはまさしく父が生前に着ていたものだろう。
ただ単に着るものがなかったから着ているとも言えなくもないが、僕はブルースが父に近づきたい
気持ちを表しているととる。
ラーズ・アル・グール側も単に破壊が目的であって、全然建設的ではない。
どちらも自己の目的しか見てたらダメだ!
真に社会のためを思って行動したときに本当の強さが生まれるのだ!
と、トーマスもクリスも思ったはずだ。(100%僕解釈)
だとしたら・・・・
あの奈落を登る事に成功する件、単にスコア達成的な表現ではなくて、違う動機に突き動かされて
成功した、
というのでもよかったのではないか・・・。
あの時間が彼を更に成長させることになるのだから・・・。(そこはヒューマンドラマ的に物足りない。)
そして何と言っても、身を挺して核を沖へ運ぶ件はまさしく自己犠牲の最たるものだ。
その後のややこしい後日談はほぼどうでもいいのかもしれない。
後編1でも書いているように、3部作を通して、監督はブルース・ウェインの心の旅を描いた。
少年が青年になり、そして大人になっていく。
こうやって考えてみると、ちょっと昔のハリウッド映画の構造そのままだ。
こういう大人を増やさなければならないし、増えなければならない。
だから監督は”ノブレス・オブリージュ”を”インセプション”したかったのだろう。
バットマンは言う、
『誰でもバットマンになれるんだ。』
と。
バットマンとしての自分を卒業したブルースは、
もはやマスクを着けなくても、
強靭な肉体に頼らなくても、
魅力的なガジェットがなくても、
ひとりの男として、バットマンイズムを胸に生きていくのだろう。